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本当の音とは?
このごろ、スピーカーを宣伝する情報が良く入ってくる。 ほんのひと月前、スピーカーで有名なボーズの通信販売員が突然やって来た。 「このたび、わが社で新製品の開発を行い、それが完成したので宣伝を兼ねて、販売にきたのですが、どうでしょうか?」ということである。 なるほど、良くできている。いままでのスピーカーに比べれば、格段の違いである。 本体は12キロで、スピーカーがサイドに左右で四つ付けられ、前面 にも低音を入れてウーハーを入れて四つ、八つのスピーカーが一体化してボックスになっている。ハウリングは一つもない。製作者が二カ月かけて、微妙なハウリングを耳で調整するという。オートメーションではできないし、非常に微妙なものであるという。聞き入るばかりである。 細かしい配線をしなくても、バランス良く聞こえてくる。まさに目の前にオーケストラが生で演奏し、映画のクラッシュがあり、ジェット機が飛ぶ様子が目に浮かび、バンドの生演奏が仮想的に聞こえる。素晴らしい。感動の一瞬であった。ちなみに値段も相当する。まあ、これぐらいはしても仕方ないというところである。
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数週間して、今度はソニーの販売員がやって来た。 「このたび新製品ができまして、その宣伝と、販売にやって来ました。どうでしょうか?」「うん、この間はボーズで、今度はソニーか。どっちがいい音するか聞いてやるか」。尋ねてみると、この間ボーズさんが来たのを知っていて聞き比べてほしいとの事であった。「よっしゃ、欠点を言ったろうやないか」と、意気込んで聞いてみた。おや、ちょっと予想を覆された。 販売員曰く「ボーズさんのとは少し違います。サイドにスピーカーは付けず、前面 のみのスピーカーだけです。ただし、うちは生音を非常に大切にしているんです」。 スピーカーの前に立つと、なるほど音が私を覆うように飛んでくる。まさに、音に包まれている。音に囲まれ、オーケストラの中で音楽を聴く、ジェット機の乗っている感覚、どう表現すれば良いか迷うくらいである。演奏者の演奏自体もさることながら弦を擦る音、息使いといった生そのものがかすれるくらいなものまで、再現される。プレイヤーとしては、非常に怖いところである。 「なるほど、一長一短ありだな。ダイナミックな一体化された音、仮想的音感などでは、ボーズが優位 かな。持ち運びもできる利点もあるしなぁ」「ソニーは、まさにオーケストラの音の中に身を置いているかのように聴き入ることができる。生音の感覚を味わうことができるなぁ」。そんなことを自己評価していた自分がそこにあった。 ◆
最近、雅楽の知名度が非常に高くなっている。雅楽は「癒し系音楽だとか、心和む音楽だとか」言う人もいる。また反対に「本当の雅楽はそんなんじゃない」とか「西洋音楽に影響されている」と言う人もいる。「本当の」とは、何にとってもむずかしい命題である。 雅楽の「本当の音」とは、何なんだろうか? 私個人の戯言としては、「生音」にほかならない。CDやMDに録音された音は、なるほど雅楽の音ではあるが、マイクを通 し時間的制約の中で録音されたという、決してそうでない部分を含んでいると思う。実際に目の前で演奏される生の演奏こそが本来の姿であり、雅楽の雅楽たる証でもあろう。あえて言うならば、綺麗な・美しい・洗練された演奏をするということも大切であるが、それ以上にもっと大切な部分はあるように思えてならない。 雅楽の演奏の面白味は、音の綺麗さもさることながら、各楽器の掛け合いと駆け引きが指揮者なしに行われているという点である。つまり、その駆け引きの早い遅いによって拍節が自然に伸び縮みするのが、面 白いのであり、楽しいのである。 その証が唱歌なのである。唱歌は必ずしも4/4拍子で歌っていない。その歌い方は、間を取り、伸び縮みしながら自然に唄うのが基本として古来から教えられてきた口伝の方法なのである。拍子を取るのに、膝をたたき、手を移動させながら唱歌を歌う。同じところで拍子を取らないのである。必ず前・後・横前・横後と位 置を変えて拍子を取る。自然に間の取りが生まれ、掛け合いが取れる間になる。と、よく私の師匠が言っていた。
いま、さまざまな雅団体があり、多種多様な活動をしている。そのなかには、古来の雅楽・近代の雅楽・ニューミュージック雅楽・シンセサイザー雅楽と呼べるものがある。聴き手としては、「雅楽」の本来の姿を見極めながら、それらを聴き分けられるだけの知識を持ちたいものである。 (by きっさん)
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