会員がつづる雅楽つれづれ
Aの音(黄鐘)について


 7月23日、ニューヨーク・シンフォニック・アンサンブルのチャリティーコンサートに行って来ました。わたしが住む藤枝市には中外製薬の静岡工場があり、この会社のメセナの一環として、行われたものです。
 世界でも指折りの歌劇場であるNYメトロポリタンオペラに属している人たちで作られている楽団ですから、その演奏のすばらしさといえば、申すまでもありません。しばし、至福の時に酔いしれました。

 管弦楽団の公演などでは、楽団員が席に着き、コンサートマスター(第一ヴァイオリンの首席奏者)が登場すると、音合わせをいたします。チューニングとも言いますが、雅楽でいえば、音取か調子に当たるでしょうか。
 まず、オーボエの奏者が「Aの音」を出します。この音を聞いて、全奏者が音合わせをし、場の雰囲気をかもし出します。次いで、指揮者の登場を待ち、いよいよ真打ち登場という緊張のおももちとなるわけです。
 指揮者が存在しない雅楽とは、すこし順序が変わりますが、これから始まるという雰囲気は同じで、音楽には国境がないんだな、とも感じます。

                ◆

 古代中国では、まつりごとと儀式は切り離せぬもので、その典礼の楽として奏される音楽は、たいへん重要な存在であったといわれます。なかでも、黄鐘の音律は、国家の平定と秩序を保つ役割があると考えられていた、とも聞いたことがあります。
 雅楽の音律・黄鐘は、洋楽では、ほぼ「Aの音」に当たります。こうしたところに、人間の音に対する思いは、洋の東西を問わないのだろうと、たいへん興味深く思います。
 ところで、なぜ音合わせは、オーボエからはじまるか、といいますと、この楽器は、たいへん音程が不安定で、技術が進んでいなかった17,8世紀は、ことに顕著であったため、「きょうのオーボエの音程は、こんな感じです。皆さん、本日の演奏は、この音に合わせてください」といったことから、こんにちの音合わせが始まったといいます。
 もちろん、改良に改良をかさねたこんにちでは、こうした必要はありませんが、西洋版「音取」は、一種の楽曲のようになって、いまに伝えられています。調子や音取も、その源をたどると、あんがい、こんなことにちなむのかもしれません。
 メソポタミアの芦原で生まれた縦笛は、欧州にもたらされ、オーボエ、イングリッシュホルン、ファゴットといった楽器に進化しました。いっぽう、アジアを経て日本に伝えられた篳篥は、楽器として大成した後は、ほとんどその姿を変えず、いまに至っています。
 その音程の不安定さを逆手にとって、人間の声のように、「こぶし」に似たような旋律や、段階をつけずに、音程を上下させる(グリッサンド)といった芸当が可能なことから、唐楽・高麗楽、催馬楽・朗詠、神楽・大和舞・久米舞・東遊といった、多種にわたる雅楽のほぼすべてのジャンルで用いられています。笛が、唐楽で龍笛、高麗楽や東遊びで高麗笛、神楽で神楽笛と個々に応じて持ち変えるのに対し、たいへん対照的です。
 音域の狭い篳篥ですが、そのもっとも高音域は、やはり「黄鐘」です。これも、よく考えてみたら、ふしぎな一致にもなります。

                ◆

 Aとは、西洋で共通するアルファベットの第一番目の言葉。この語で表現されるAの音とは、人間には、とてもなじみのある音なのかもしれません。「ただいまから、○時○分をお知らせします。ツ・ツ・ツ ツーン」という時報の音程も、Aの音です。
 世界の民謡のほとんどは短調であり、長調の曲は、ヨーロッパのごく限られたものである、との話も聞いたことがあります。いわれてみれば、日本の民謡や、日本人好みの曲、演歌や歌謡曲でも人気の高い曲のほとんどは、短調です。
 Aの音は、ドレミで言えば「ラ」ですから、短調のもっとも基本となる音です。
「ねんねんころりよ おころりよ」の子守歌、正調は、長音階だそうですが、ほとんどの人は、短音階で謡います。しょうしょう恐れ多いのですが、「みかぐらうた」でも、長音階で明るく奏でられるのが正しいのですが、信者さんの多くは、短調で唱和されているようです。自然に、短調に転調してしまうのでしょうか?
 雅楽では律旋がほぼ短調に当たりますので、平調、黄鐘調、盤渉調、高麗壱越調などが該当するでしょう。名曲が多い盤渉調の荘重な調べ、律旋・催馬楽の甘いメロディ、哀調を帯びた高麗壱越調の舞曲など、まさに日本人好みのように感じられます。
 例の演奏会では、アンコールで、管弦楽版「荒城の月」が奏され、じつに粋なはからいでしめくくられました。格調高い美しい調べは、雅楽の黄鐘調の楽曲にも似た旋律で、日本人であれば、だれもが知っているわけですが、この曲を知らない外国人の耳なら、西洋人の作曲による“日本情緒を現した幻想的な曲”と感じるかもしれません。
 滝廉太郎がこの曲を留学先のドイツで披露したとき、「ブラームスの音楽を思わせる」とも評されたといわれています。洋の東西の音楽が、みごとに調和された傑作ともいえましょうか。Aの音律を基音とする短調の調べは、人間の自然な営みなのかもしれません。

                ◆

 長談話もそろそろ幕としましょう。バブル華やかし頃、大企業は、こぞって社会への還元と称し、慈善文化事業を数多く行いました。ラテン系の言葉で、こうした事業を「メセナ」とも言いますが、今ではすっかり珍しいものになってしまいました。
 これと歩をおなじくして、バブル期、各地方自治体も、文化行政として、ときには不相応とも思えるほどの立派な音楽堂や会館を建てました。“箱物行政”と批判されるたまもので、こんにちでは、収益性の悪いお荷物的存在となっている施設もすくなくありません。
 世界をわかせたWカップ。会場となった各自治体のサッカースタジアムも同じで、つわものどもの夢のあとのようになっています。
 しかし、西洋の伝統的な文化やスポーツも、自立は難しく、公共によって支えらているのが現状のようです。絢爛たる雅楽も、とんでもない金食い虫であり、常に権力者の庇護を要しました。文化芸術には、そうした側面があるのも否めません。
 メセナという「過去」に出会い、心が洗われるような豊かな思いを持つなか、文化・伝統の保持は、市民の不断の努力によらねばならないのだろうと感じました。そして、古代中国の「黄鐘」や、オーボエへの考えも為政者は持たねばならないのでは、とも。政治や行政は効率よく営まれなければなりません。しかし、文化事業は……。確かにむずかしい。でも、だから、いまに、そして未来に伝えられるのかもしれません。
(by植田裕明)

build by phk-imgdiary Ver.1.22