会員がつづる雅楽つれづれ
「書き込み」に対する回答

 おやさと雅楽会のHPの「書き込み欄」に
なぜ天理は「管絃」「舞楽」「謡物」と分けたがるのですか?
「催馬楽」と「神楽」は一緒ですか?
「朗詠」と「東遊」は一緒ですか?
たいした知識もないのに、天理は雅楽をやめれ。
自分の教会の「みかぐらうた」さえ手がそろわんのに、
葬式雅楽で儲けるな。
との書き込みがありました。無記名の書き込みですので、無視してもよいと思われますが、多くの方に目に触れるところでもありますので、見過すわけにはいかず、HPの管理者の一人として、ご質問と思われる事柄に対しては回答を、ご発言で気になりますところには、考えておりますことを、私見として述べさせて頂きたいと思います。

なぜ天理は「管絃」「舞楽」「謡物」と分けたがるのですか?
 まず、この分類は、天理に限ったものではないことを、お伝えしたいと思います。今日の雅楽の伝承されている状況を考えて整理した、一つの分類法だと思います。明治になってから、旧来の伝統が崩れて、概ね現在の姿になりました。日本音楽研究者が、便宜上分類したものと思われます。戦後、昭和の三十年代にはこの考えが、レコードの解説や、普及誌によって一般に知られるようになりました。したがって、天理独自のものではありません。 次に、このご質問にある「天理」が指し示す対象について、限定しておきたい
と思います。ご質問の方は既にご承知の事と存じますが、「天理」が意味するところ、雅楽に限ってもその対象は多岐にわたります。大きく、「天理教」、「天理を冠する教育機関」に大別することができます。もちろん、行政単位としての「天理市」も考えられますが、雅楽団体が御座いませんので、省きます。「天理教」に分類されるものとして、天理教教会本部雅楽部、天理教音楽研究会雅楽部にはじまり、全国にあります教会や布教所などの教会に準ずるところ、教区・支部、あるいは、青年会などの年齢層に応じた組織、また信者が任意に結成している団体までがあり、その数、百を優に超えております。その中で天理教音楽研究会雅楽部では、三つのジャンルを一応区別してとりあげ、演奏会を行っておりますが、その他数多くの団体が、ご指摘頂いている三分類を採用しているとは限りません。天理教の歴史の中で祭儀に採用されていた「神の御国」をみてもお分かり頂けるかと思います。
 もう一つの「天理を冠する教育機関」は、天理教が経営致します、二つの学校法人と教化機関としての天理教校があり、学校法人天理大学には、幼稚園から大学まであり、そのうち天理大学、天理高等学校、天理高等学校二部に雅楽部があります。また、天理教校学園には、親里高校雅楽部と天理教校付属高等学校雅楽部があります。(本年4月には、両校が一つとなりますので、雅楽部も天理教校学園高等学校雅楽部となると思われます)、一方天理教校には、専修科と第二専修科とがあり、それぞれ雅楽部を擁しております。中でも天理大学雅楽部は、昭和41年の第一回定期演奏会より、演奏のスタイルを明確にする分類として一般聴衆に分かり易いというところから、この分類を採用しています。他の教育機関でも、同じように採用しているところもあれば、そうでないところもあります。いわば、「わけたがる」のではなく、分けるとまさに分かり易いからです。
 そもそも、「雅楽」という用語は、日本音楽の一分野をさす語であると同時に、「雅正の楽」の略として、理念を指すものでもありますから、その内容が、複雑多岐に亘らざるを得ません。

「催馬楽」と「神楽」は一緒ですか?
 このご質問には、当然「違います」と答えればよろしいのでしょうが、おそらく、前の質問からの関連から想像致しますと、神楽を謡物に分類に入れてしまってよいのかということかと思います。前述致しましたように、雅楽の用語が何を指すかによって、その内容が変わります。「雅正の楽」であるなら、神楽も入れて良いでしょうが、「神楽」と「雅楽」とを分けて考える見方もあります。淡交社が出版した「日本の伝統」シリーズでは、別立てで出版されているところからもお分かり頂けると思います。一方、宮内庁楽部の春秋の公演の中で、一応「雅楽公演」と謳って神楽も東遊びも行われています。

「朗詠」と「東遊」は一緒ですか?
このご質問も、前の質問と同じ趣旨かと思います。当然「朗詠」と「東遊」は違います。「謡物」は、分類概念で、「雅楽の楽器の伴奏によって歌を歌うということを中心に演じられるもの」とお考えいただいたら良いかと思います。

「たいした知識もないのに、天理は雅楽をやめれ。」
 このご指摘、知識がある方だけが雅楽をすることが許されるのでしょうか。ここで指摘している「天理」は、先に挙げたどれを指しているのでしょうか。ある意味で、暴言と思われるこのご発言は、見逃すわけにはいきません。是非、名乗りを上げて頂きたいと思います。ご質問には、考えさせられるところも少なくありませんが、無記名でのこのような発言は、如何なものかと思います。

自分の教会の「みかぐらうた」さえ手がそろわんのに、葬式雅楽で儲けるな。
 「みかぐらうた」は、歌で御座いますから、「手がそろわん」とのご指摘から考えるなら、「つとめ」のことかと存じます。天理教にとりまして、「つとめ」は、重要なものです。「手がそろう」ことは大切なことです。「手がそろう」には、二つの意味があり、「必要な人数がある」という意味と、「つとめ」の重要な要素であります、「手振り」の「手が拍子も違わず、間違いなく振られている」ことを意味しています。いずれも、大切なことです。確かに、「手のそろわない」でつとめがつとめられることがあるかもしれません。そのような事のないよう、心がけることの大切さは天理教の信者なれば、誰でも知っていることであります。だからといって、雅楽をしてはいけないという理由にはならないのではないでしょうか。
 現在の、天理教の祭儀では、雅楽を祭典の楽として採用し、恒例祭を初め、いろいろな儀式で演奏されています。その一つに、葬祭があります。死者を悼み、家族・親族の悔やみを慰め、式に携わるものに儀式の円滑な進行を促し、式に参列した人々に儀式の進行を知らしめるために、いわば儀式の荘厳を目的として、奏楽がなされています。楽人として奉仕したものに対して、なにがしかの謝礼が払われるのは、何らおかしなことではありません。もし、奏楽することを生業にしている人を対象としての発言であれば、「儲けるな」というのは、発言だけであれば問題となりませんが、何らかの影響があるとすれば、営利妨害にあたります。
 以上、「おやさと雅楽会」のメールを管理しているものの一人として、回答ならびに意見を述べさせて頂きました。(文責 佐藤浩司)

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